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僧伽歌 -#1

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代葛沙門妻郭小玉詩二首

 

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僧伽歌  #2

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贈丹陽橫山周處士惟長

張中丞傳後敘 -#14

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贈丹陽橫山周處士惟長 #2

張中丞傳後敘 -#15

冬至

 

邱巨源_其二聽隣妓 -#1

 

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雪讒詩贈友人#-0

張中丞傳後敘 -#16

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邱巨源_其二聽隣妓

 

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雪讒詩贈友人 #1

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柳司馬至-#2

 

王融_ 雜詩五首其一古意

 

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雪讒詩贈友人 #2

張中丞傳後敘 -#18

 別李義 - #1

 

王融_雜詩五首〔2

 

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雪讒詩贈友人 #3

張中丞傳後敘 -#19

 別李義 - #2

 

王融_雜詩五首〔3

 

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雪讒詩贈友人 #4

張中丞傳後敘 -#20

 別李義 - #3

 

王融_雜詩五首〔4

 

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杜甫研究、詩と生涯

 

 

 

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雪讒詩贈友人 #5

張中丞傳後敘 -#21

 別李義 - #4

 

王融_雜詩五首〔5

 

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雪讒詩贈友人 #6

張中丞傳後敘 -#22

 別李義 - #5

 

謝朓_雜詩十二〔1〕

 

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雪讒詩贈友人 #7

張中丞傳後敘 -#23

 別李義 - #6

 

謝朓雜詩十二〔2〕

 



杜甫、詩と生涯 1.杜甫 長安での十年 1.-1 はじめに

 

 

 

 

長安地区歴代都城位置図00
 


杜甫、詩と生涯

1.杜甫 長安での十年


1.-1 はじめに

唐代の長安は規模広大な都であった。東西は十八里百十五歩、南北は十五里百七十五歩、城北の宮殿と東西二つの市を除いては、全域に百十個の正方形或いは長方形の坊があり、坊と坊とのあいだには、まっすぐな街路が委していた。(唐の一里はわが五町、一歩は五尺、尺は同じ。里歩など今はすべて原著者の原文のままに記している。-訳註)今の長安城の面積は、これに比べるとその六分のーにも達しない。長安は五八二年(隋の文帝の開皇二年)の建設で、それ以来、時代の推移につれて、拡充発展しつづけ、天宝時代になるとその繁華は最高点に達し、過去にない充実した国際都市になった。そこには都市計画に沿った支配者の宮殿や役所、邸宅、各派宗教の寺院、商店旅舎がたちならび、公開の或いは私人の庭園がちらばっていた。

漢文委員会:長安の都市計画サイト (http://kodaitoshikei02.ken-shin.net/

〔詩人〕

唐代の著名な詩人は長安に行き、文人と接触することが重要と考えていた。彼らはとかくその持ち前の詩筆で、好んで長安における地勢の雄渾さとか、城坊の整頓、支配階級の豪華な生活、それと日夜そこで演出される盛衰興亡の活劇を写し出そうとした。杜甫も彼が三十五歳(746年)に長安に行ったが、彼の眼光は人の目を幻惑するこれらの事物に限られほしなかった。彼は一年また一年と住みついてゆくうちに、これらの事物のほか、さらに李林甫の専横、支配者集団の腐敗と庶民の苦痛を見とどけたのである。張洎に贈った詩のなかで、多年漫遊から得た結果は『越にゆくも空しく顛躓し、梁に遊ぶもついに惨悽たりき。』(この「適越空顛躓、遊梁竟惨悽」の二句は、杜詩詳注の巻三「太常張卿蛸に贈り奉る」に見える。-訳註)であったと、彼はいっている。洛陽ではただもう世俗の機巧をうんと経験させられたまでのこと。その彼がいま長安へやって来たのも主な目的は官職にありつこうと望んでであった。彼は仏教には縁なき衆生であったし、王屋山・東蒙山に仙を求め道家を訪ねたのも、しばらく李白の影響を受けただけの話で、言うまでもなく家庭の儒教的伝統とか、乃至は個人的要求とかが、彼をせき立てて、是が非でも政府で仕事する地位にありつかねはならぬ羽目にさせたのであった。彼の父は兗州司馬から、長安を距ること遠からぬ奉天(駅西省乾県)の県令に転任したが、これも彼を西のかた閑中に行かせた附帯的原因かも知れないところが、意外にも、長安に十年も住んで彼が得たものは、一向に顕要な官職ではなくて、現実にたいする認識であり、これによって彼は唐代の詩歌に新しい世界をきり開いたのであった。

 

2. 玄宗の油断  (道教・享楽・陰謀)

〔政治〕

この時代の政治はまさに日一日と腐敗してゆく兆が現れていた。李隆基は三十余年皇帝となっていたが、天下太平で社会富裕の有様をながめて、国内にはもう何の心配に値することもないと感じた。その太平思想は、彼が早年政治に励んだ精神を麻痺させてしまった。年六十を過ぎたこの老皇帝は十数年このかた道教信仰に迷いこんで、親しく神仙が空中で物語るのを聞いたり、紫雲のなかに玄元皇帝(すなわち老君)が出現したとか、どこそこの土地で符瑞が現われたとか、彼に報告するものがあったりして、自分は未来永劫太平な世に居て永久に死ぬことはなかろうと信じさせられたのである。同時に彼は自身を宮中に閉じこめて官能的な享楽を求め、日がな盲声色におぼれ、騎著とめどなき生活を送っていた。そして彼は、政権をすっかり中書令の李林甫にわたしてしまった。李林甫は『ロに蜜あり、旗降剣あり』といわれた陰謀家。彼は玄宗の側近に媚びへつらい、玄宗に迎合して、今までに得た恩寵と信任を固めることに努めた。彼は諌言の路を絶ち人の昔をふさいで、己の陰謀をなしとげようとした。

 

― 李林甫 ― 陰謀と恐怖

李林甫は賢才をねたみ、自分よりすぐれた能力をもつ者をおさえて、己の地位を保持した。それのみか、しばしば大疑警つくりあげて、自分に協力せぬ主だった官吏を無実の罪におとしいれ、自己の勢力を拡張した。そのため、開元時代に遣っていた比較的正直な、秋介な、才能ある、或いは気ずい気ままで放言する、また片意地といわれる程に潔白な人士で、彼の悪だくみと落し穴にかからぬものはほとんどなかった。

杜甫の崇拝していた張九齢・厳挺之も彼のために排斥されて都を離れ、やがて前後して死んでいったし、李白の天才に驚歎し金亀(唐時代、三品以上の官吏が侃びる袋飾。-訳註)の高い官等の身分でありながらかれと酒を汲みかわした賀知章も、上書して道士にならんことを請い、郷里に帰っていった。その後李邕も北海太守の官に在任中、李林甫の特務機関にがい殺害され、左丞相の李適之は宜春の太守に左遷され、ほどなく自殺を迫られ、李適之と仲が好く、のち杜甫と非常に親密な関係にあった房琯も、宜春(今の江西省宜春県におかれていた郡。-訳註)の太守に貶められている。

この時代の長安は陰謀と恐怖の空気に包まれて、数年前の「飲中八仙」の浪漫的な雰歯気はほとんど一掃されていた。李林甫のほか、政府の人物といえば、王鉷や楊国忠のような貧官汚吏でなければ、陳希烈のような愚物卑怯者ばかりであった。

杜甫がはじめて長安にいったばかりのときは、まだ漫遊時代の豪放な心ばせは失せやらず、咸陽の旅舎で天宝五年(746)の除夜を送ったときなど、泊りあわせた客たちと明るい燭のもとで、高声あげて賭けをしていた。だが彼が長安の現実と接触が重なるにつれて、豪放な懐抱もおいおいに殺がれてゆき、その間にあって彼は過去の自由な生活に限りないなつかしみを感じた。だから一種矛盾した心情が十二分に彼の長安に在った前期の詩句に反映されている。それは一方で自由な『江海の人士』を羨むかとみれば、他方では長安で官職にありつきたいと企て、上の句で人間を拘束する帝都からは離れたいと言い、すぐ続けて下の句ではここに留まらないわけにゆかぬと述べたりする。

とりわけ彼が外からさびしい書斎にもどってくるとき、それが風霜人に逼る冬であろうと、渭水北のかなたが眺められる春であろうと、彼はいつも李白をしのんでいた。孔巣父が長安から江南へ帰る送別の宴でも、李白の安否を問うてほしいと、彼にくり返し頼んでいる。(「春日李白をおもう」の句に、「渭北春天の樹 江東日暮の雲」とあり、詳註の巻一には、孔巣父が病と云って江南に帰るを送り、かねて李白に呈した詩が見える。-訳註)彼がこんなに李白をなつかしむのも、つまりは李白がなおもああした豪放生活を続けているのが羨しく、それに引きかえ彼自身は今の生活を放棄しょうにもしえないものがあったからである。

― 文学芸術の一技にすぐれた者

唐の玄宗は、奥深い宮廷で心を声色にほしいままにし、外部の事情にたいしては日増しにうとく、前に聡明有為をうたわれた帝王も愚かしい天子に変ってしまった。彼は時たま人民に思いを馳せ、国民の租税を免除したが、貪慾な権臣どもの横暴なとりたては彼が免除したそれより幾層倍も越えたものであった。七四七年のこと、彼は詔を出して、文学芸術の一技にすぐれた者は都に出て試験を受けるようにと求めた。ところが、李林甫は文人芸術家をひどく憎悪していた。というのも、それらの人間は田舎者で『礼度』をわきまえず、彼らが思うまま朝政を批評したのでは自分に不利だ、と恐れたからである。そこで陰謀をめぐらし、そのお召しに応じた挙人を試験の場でおとし、誰一人として及第させなかったのである。(唐代でいう挙人は地方長官から推挙されたもののことで、進士に応試する資格をもっていた。)試験成績が発表されたあとで彼は上書して、これは今の民間には遺された賢能がいないことを証明するに足ると、逆さまに祝辞をたてまつった。玄宗もこんなぐあいでうやむやにごまかされてしまうほかはなかった。

杜甫も、詩人の元結(723-772)も、この欺瞞の試験に参加したことがあった。杜甫はもとこのたびの試験を唯一の立身出世の路とみなして、きっと成功するものと思いこんでいたが、はからずもそんな始末になったものだから、彼は詩句に再三この傷心事をもち出している。そして李林甫が七五二年に死去すると、彼はいよいよ大胆に数年来の胸にたくわえられていた悲憤を述べたのであった。

 

 

破膽遭前政、陰謀猫菜釣。

破膽す 前政の陰謀独り釣を計るに遭沌)

微生霑忌刻、萬事益酸辛。

教生 忌刻に蹴津万事 ますます酸辛なり

ぶったまげてしまった。前の宰相李林甫のことである。やつは、陰謀をたくらみ、専政をほしいままにしてきた。その憂き目にあったものは誰あろう。ささやかな私の生活ではあるが、毒牙にも似た彼のむごい目にあうてからは、よろず事ごとに辛酸を増すばかり。

ー 京兆二十韻 (註 李林甫の専横をさす。)
(「鮮嘉兆に贈り奉る二十韻」は詳註の巻二に見える。鮮干、名は仲通、覇の富豪で天宝十年に京兆の尹となった。-訳註)http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-tohoshi/archives/66816157.html

これは杜甫が李林甫の陰謀政治下に出くわした打撃であった。同時に彼個人の経済状態にも大きな変化が起った。彼の父は奉天県令に赴任したらしいが、まもなく死んでしまい、彼は彼で長安一帯を流浪し、日々に貧窮の途をたどるうちに、生活維持のためには、平身低頭、いくたりかの貴族屋敷に巣くういわゆる『賓客』の数をみたす身とならざるをえなかった。その時代、一部の貴族は前代の遺風をうけついで、彼らの邸宅庭園で閑散な歳月を享受するほかは、文人・楽人・書家・画師のいくたりかを招いてその生活の装飾品としていた。彼らは政治上には何の作用もおこすはずはなかったが、あり余った財富をたのみに、時に応じて賓客たちに小さな恩恵を施していた。賓客は彼らの相伴となって、詩酒宴遊のあいだに自己の憐れな生計を維持した。だが、時たま酔いながらに、主客の間にもしばらくは売文を介して、階級のわくが取除かれたかのごとく、たがいに『朋友』となったこともあった。杜甫はこんな賓客になっていたのである。このほかに彼はなお副業を探し当て、薬物を山野で採ったり階前に栽培したりして、もとめられるままに彼らに献上して、いくらかの『薬価』にかえ、彼らの手から受取った銭がただでもらったものでないことを表示した。これがつまり、後になって彼のいう『薬を都市に売り、友人に寄食す』である。それらの『朋友』のうちで最も重要なのは汝陽王李璡と鮒馬の鄭潜曜である。彼は詩を作ってこの輩に贈り、彼らを讃め、彼らの自分に対する待遇を、

巳忝歸曹植,何知對李膺。

己に曹植に帰するを忝くす 何如ぞ李膺に対せん

招要恩屢至,崇重力難勝。

招要恩 屢々(しばしば)至る 崇重 力 勝()え難し

披霧初歡夕,高秋爽氣澄。

霧を披(ひら)く 初歓の夕 高秋 爽気(そうき)澄めり

私は昔の王粲のようなもので、己にかたじけなくも曹植ともいうべきあなたに身を託するようになりましたが、杜密でもない私がどうして李贋ともいうべきあなたに対することができましょう。私を招いてくださる御恩命がしばしば私の処へきます、私を尊重してくださるので、私の力はそれに勝るの難しいほどです。あの雲霧をおしのけて青天をながめるような心地した初めてお会いした夕べには、秋の天高く爽な気がすみわたっていた。

ー 贈特進汝陽王二十韻(汝陽王李璡は寧王憲の子、玄宗の甥にあたる。この句は、杜詩詳註巻一(一)六〇 に見える。)

騎驢三十載,旅食京華春。

驢に騎る三十載 旅食す京華の春

朝扣富兒門,暮隨肥馬塵。

朝に富児の門を如き 暮に肥馬の塵に随う

殘杯與冷炙,到處潛悲辛。

残杯と冷泉と 致る処潜に悲辛

主上頃見徵,然欲求伸。

主上に頃ろ徴さる 然伸を求めんと欲す

青冥卻垂翅,蹭蹬無縱鱗。

青冥卻って翅を垂る 蹭蹬として鱗を縦にする無し

驢馬に乗り始めて早や三十年ばかり、都の春に旅住いをしている。朝にはかねもちの門を叩いたり、暮には他の権貴がとばす肥馬の塵のあとからくっついてゆく。彼等が与える飲み残しの酒杯、つめたくさめた焼き肉、そんなものをあてがわれて到るところ自分は内心に悲み辛さをいだいている。近いころ我が君からおめしにあずかり試験をおゆるしになったので、今度こそはとにわかにいままでの思いのたけを伸べようとおもっていたのだった。 此の大鳥は青空に飛び立つのでなく、そこからつばさを垂れさせられてしまい、此の大魚は巨塁に自由に泳ぎまわるのではなく勢なく鱗を気ままに振うことができないようなことになった。』実情は別の一首にはっきり述べられている。

ー 奉贈韋左丞丈二十二韻杜詩詳註巻一(一)七三 に見える。「韋左丞丈に贈り奉る」)

彼はかくも悲惨な詩句を書いて韋済に贈っている。その韋済とても、さほど立派な人物ではなく、彼は七三四年、素性も怪しい方士張巣を玄宗にすすめて、長生を求め道教に迷いこんだ皇帝の心に迎合している。そして748年、河南声から尚書左丞に違ったのだった。彼は河南にいたとき、首陽山のふもと、戸郷事へ杜甫を訪ねていったことがあったが、それはすでに杜甫が長安へ赴いたあとであった。彼が長安に行って後、つねづね同僚との席上で杜甫の詩をほめたたえていた。これはそのころ長安で詩人としての杜甫の才能を重んじてくれた唯一の人といってよい。それで、杜甫も、胸中の悲憤を洗いざらいうったえて「韋左丞丈に贈り奉る二十二韻」を書きあげたのである。この詩は開口一番、彼がその腐敗した社会で感じた真実を、『紈袴は餓死せず、儒冠多く身を誤る、』 - “いい身分の貴公子とちがい、学問に志すものは衣食にも事かく”、と語っており、ついで彼は若い日の抱負と今日の零落を述べている。

これは杜甫の述懐詩としてはもっとも早い創作で、彼の貧しい生活がこれから始まったことも表明されている。同時に、「東のかた大海へ赴いて昔日の自由浪漫な生活をとりもどしたいと思い」、一方ではまた、「終南山麓の長安杜少陵における就官生活を離れるに忍びない」、という心のうちにある矛盾をも述べている。事実、彼は749年の冬に一度郷里に帰ったこともある。彼はまた洛陽城北でそのころすでに太微官と名が改まっていた玄元皇帝廟へ詣でて、呉道玄が宮廷の壁にえがいた「五聖図」を鑑賞し、なおまた詩句で玄宗が道教を崇敬しすぎることに不満を示してはいるが、杜甫は洛陽に長らくは住まないで、また長安へまいもどってきている。

sk08 秦咸陽宮 配置概略図01