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757年至徳二載、杜甫は蘆子関で捕縛され、安禄山の叛軍に占領されていた長安に送られた。杜甫は軟禁の長安から命がけで脱出し、鳳翔の行在所に駆けつけた。その功によって粛宗に拝謁し、左拾遺(従八品上)の官を授けられた。必ずしも高い官職ではなかったが、その職掌は皇帝の政治の誤りを正すことにあり、同官を拝命した喜びは、杜甫にとって大きいものだった。ところが間もなく、杜甫は宰相房琯を弁護して粛宗の逆鱗に触れた。辛くも罪を問われることは免れたが、杜甫は徹底して朝廷内で疎外され、仕事に関して嫌気を感じていた。翌年には房琯の一党とされて、華州司功参軍に出される。宰相の房琯が邠州刺史に貶められたことで、杜甫が官を辞することはこの時期に到る詩には明確にあらわれている。そして759年乾元二年秋初、杜甫は粛宗の時代では、一縷の希望もないと、官職を捨てて秦州へと旅立つ。半官半隠の理想と人生は、捨てきれないものの後半生の漂泊はここに始まった。
左拾遺の官を拝命して、希望と使命感を抱いた杜甫が、一転して挫折と失望を味わうこととなった原因が、いわゆる「房琯擁護発言事件(房琯事件)」である。しかしこの「事件」により、堪え、苦しみ、詩人として格段の成長を遂げることになるのである。最も注目すべき事柄である。
杜甫と房琯について杜甫の詩文は以下のようにある。
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詩題 |
直接 |
関連詩 |
(1) |
悲陳陶 |
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⑧ |
(2) |
悲青坂 |
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⑨ |
(3) |
① |
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(4) |
② |
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(5) |
③ |
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(6) |
④ |
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(7) |
⑤ |
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〃 |
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(8) |
⑥ |
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(9) |
⑦ |
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●杜甫詩index-13 763年寶應二年 杜甫52歳 蜀中転々 92首
●杜甫詩index-15 765年永泰元年 54歳 正月幕府を辞す 63首
●文
祭故相国清河房公文(故の相国清河房公を祭る文)
○関連
杜甫人生のエポックメーキングの事件、「房琯擁護発言事件(房琯事件)」房琯に関する詩は9首あり、関連の詩が5首ある。特に上記①~⑦の詩文の前後の作品は杜甫の心境を推し量るものとして注目している。杜甫の人生を変えた、この事件を多様に、有機的に、大局的にもとらえてゆく。
〇房琯一派
鄭虔、何将軍、賈至、嚴武、岑參、蘇源明、儲光儀、
765年-34 陪王漢州留杜綿州泛房公西湖
(卷十二(三)一〇〇六)註(640)
舊相恩追後,春池賞不稀。
闕庭分未到,舟楫有光輝。
豉化蓴絲熟,刀鳴鱠縷飛。
使君雙皁蓋,灘淺正相依。
765年-34 721 《舟前小鵝兒〔自注:漢州城西北角官池作,官池即房公湖。〕》
765年-35 得房公池鵝(卷十二(三)一〇〇八)註(641)
房相西亭鵝一群,眠沙泛浦白於雲。
鳳皇池上應迴首,為報籠隨王右
765年-39 承聞故房相公靈櫬自閬州啟殯歸葬東都有作二首其一(卷一四(三)一二三四) 注(843)
遺聞房太尉,歸葬陸渾山。
一德興王後,孤魂久客間。
孔明多故事,安石竟崇班。
他日嘉陵淚,仍霑楚水還。
765年永泰元年54歲-49 《承聞故房相公靈櫬,自閬州啟殯歸葬東都有作,二首之一(遠聞房太守) 》
765年-40 承聞故房相公靈櫬自閬州啟殯歸葬東都有作二首其二(卷一四(三)一二三五) 注(844)
丹旐飛飛日,初傳發閬州。
風臣終不解,江漢忽同流。
劍動親身匣,書歸故國樓。
盡哀知有處,為客恐長休。
765年永泰元年54歲-50 《承聞故房相公靈櫬,自閬州啟殯歸葬東都有作,二首之二》
765
年永泰元年54歲-49 《承聞故房相公靈櫬,自閬州啟殯歸葬東都有作,二首之一(遠聞房太守) 》 杜甫index-15 杜甫<849> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4980 杜甫詩1500-849-1167/2500
757年至徳二載、杜甫は蘆子関で捕縛され、そのまま安禄山の叛軍に占領されていた長安に送られた。杜甫は半年以上軟禁の長安から命がけで脱出し、鳳翔の行在所に駆けつけた。その功によって粛宗に拝謁し、左拾遺(従八品上)の官を授けられた。必ずしも高い官職ではなかったが、その職掌は皇帝の政治の誤りを正すことにあり、同官を拝命した喜びは、杜甫にとって大きいものだった。ところが間もなく、杜甫は宰相房琯を弁護して粛宗の逆鱗に触れた。辛くも罪を問われることは免れたが、杜甫は徹底して朝廷内で疎外され、仕事に関して嫌気を感じていた。翌年には房琯の一党とされて、華州司功参軍に出される。杜甫が官を辞することはこの時期に到る詩には明確にあらわれている。そして759年乾元二年秋初、杜甫は粛宗の時代では、一縷の希望もないと、官職を捨てて秦州へと旅立つ。半官半隠の理想と人生は、捨てきれないものの後半生の漂泊はここに始まった。
左拾遺の官を拝命して、希望と使命感を抱いた杜甫が、一転して挫折と失望を味わうこととなった原因が、いわゆる「房琯擁護事件」であるといわれるが、実際には、朝廷内における「房琯一派」は、肅宗、宦官、賀蘭進明・第五琦の連合から朝廷からはじき出されたのである。この事について、杜甫の《乾元元年華州試進士策問五首》の訳註解説の中で詳しく述べているので参考にしてもらいたい。
杜甫と房琯について杜甫の詩文は以下のようにある。
●杜甫詩index-13 763年寶應二年 杜甫52歳 蜀中転々 92首
◍721 《舟前小鵝兒〔自注:漢州城西北角官池作,官池即房公湖。〕》 蜀中転々 杜甫 <628> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3450 杜甫詩1000-628-884/1500
◍722 《得房公池鵝》 蜀中転々 杜甫 <629> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3455 杜甫詩1000-629-885/1500
◍廣徳2年764-88 《別房太尉墓》 杜甫index-14 764年閬州<764> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4150 杜甫詩1500-764-1001/250052
●杜甫詩index-15 765年永泰元年 54歳 正月幕府を辞す 63首
◍855 承聞故房相公靈櫬,自閬州啟殯歸葬東都有作,二首之一
◍856 承聞故房相公靈櫬,自閬州啟殯歸葬東都有作,二首之二
(故房相公靈櫬,閬州より殯を啟き 東都に歸葬すと承聞して作有り,二首)
●文
○房大尉 宰相房琯、大尉はその贈官である、琯、字は次律、玄宗が蜀に幸したとき宰相に拝されたが、陳涛斜の敗戦(悲陳陶 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 152 悲青坂 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 153)によって房琯を貶されて邠州刺史となった。上元元年礼部尚書に改められ、ついで出されて晋州刺史とされ、八月漢州刺史に改められた。763年寶應二年四月特進・刑部尚書に拝されたが、途中で病にかかり、763年廣徳元年八月(宝応二年七月廣徳と改元)閬州の僧舎に卒した。六十七歳、太尉を贈られた。
764年広徳二年春、閬州より成都に赴こうとして房琯の墓に別れる情をのべた詩『別房太尉墓』がある。作者の文集中に広徳元年九月に作った「故相国清河房公を祭る文」がある。(全唐文にあるものを別に紹介する。)
廣徳元年763年 《祭故相國清河房公文-(7)》 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-7> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4185 杜甫詩1500-1501-7-1008/250059 |