杜甫、詩と生涯 1.杜甫 長安での十年 1.-2 長安での就活の中での詩


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謝朓雜詩十二〔2〕

 


杜甫、詩と生涯 1.杜甫 長安での十年 1.-2 長安での就活の中での詩

 

 

 

1.-2 長安での就活の中での詩(1

玄宗は751年(天宝十年)、正月八日から十日まで三日間つづけざまに三つの盛典 - 玄元皇帝・大願・天地の祭祀を挙行したのだった。杜甫は立身出世によしなきを感じていた矢さきであったので、これを好機会として「大礼賦」三篇を書き上げ、「三大賦を進むるの表」を延恩のなかに投じた。

 

 註

 とはこの時代に意見をさしだす信箱で、武后が政権を担っていた時にはじまった。その信箱に四面の口があり、東は「延恩」、南は「招諌」、西は「伸冤」、北は「通玄」とよばれる。およそ自分に才能ありと思い・立身出世を願うものは、その著作或いは上表する文を「延恩」に投げこめはよかったのである。

 

ところが、思いがけなくも、彼が投じた三篇の賦がついに効果を生じた。玄宗は読みおえると、賞讃して彼を集賢院待制(図書寮顧問とでもいうべき職分。)とし、宰相に命じて彼の文章を試験させた。
 これは彼の長安十年中もっともかがやかしい時期となったのである。彼は一日のうちに、大いに評判された。そしてその試験の日など、集賢院の学士たちは彼を取りまいて眺めていた。が、しかしこの幸運は、パッとひらめいたばかりで、過ぎ去ってしまった。試験があった後、彼は部署配置の任命を待っていたのに、いつになっても達しが降りて来ず、これも李林甫が中にたって禍したのであった。彼はただ気長に待っているほかはなかった。そして、翌年の春、杜甫は、洛陽にもどってしばらく住んだとき、二人の集賢院の学士に向って、仕官の前途にはあまり希望がもてなくなった、といい、続けて、祖父の名声をうけついで作詩に努力する、と彼の口から絶望的な言葉を発言している。


 しかし、杜甫は思いあきらめたわけではなかったのである。754年、続けざまに賦を二篇、「西岳を封るの賦」と「鵰の賦」とを奉っているが、彼はこの二篇の賦をたてまつる上表文の中で、相も変らずのどから手の出るほど仕官を望んでおり、自分の窮困生活を述べて、はなはだ痛ましいものがある。
 同時により好みすることもなく、彼はあまり貴くもない権力者や要路の人々にも詩を送って、彼らに引きをもとめた。彼は翰林の張キ・京兆の鮮于仲通、長安へ朝謁に来た哥舒 翰、左丞相の韋見素たちにも詩句を贈っている。それらの詩句はすべて排律で作られ、一定の形式をそなえている。はじめに彼らの功業をほめたたえ、ついで自己の窮状を述べたて、最後に詩句を望する本意を述べたものであるが、それは人に哀憐と切迫さを感じさせ、排律のうちに積み重ねられた典故も、彼の痛ましい心象を蔽いきれなかったのであった。私たちは杜甫が一方では貧苦に迫られ、他方では功業心に駆られて、官職を得るためにはもはや手段を選ばぬまでになっていたことを、そこに見ることができよう。

 

杜甫は四十からあと、生活の貧苦はかりでなく、身体も持病の喘息ため次第に衰えが出始めた。751年の秋、長安は長雨が降りつづき、いたるところで垣や家屋が倒壊した。杜甫は旅の宿でまる一秋というもの病みついて、門ぎわの水たまりには小魚がわき、寝台のそばの床にも青い苔が一面に生えた。彼の肺はもとから健全でなく、このときにはまた重い喘息にかかった。病後彼は友人の王琦の家にゆき、そのときの病状を次のように語っている。

病後遇王倚飲 贈歌

病後王倚に過りて飲み贈れる歌

瘧癘三秋孰可忍,寒熱百日相交戰。

頭白眼暗坐有胝,肉黃皮皺命如線。

瘧癘三秋 たれか忍ぶぺけん、寒熱百日 相い交戦す。

頭白く眼暗く 坐してあり、肉黄ばみ皮だちて命は線の如し。

この年の秋の季節中は瘧癘で苦しんだ、三月百日ものあいだ、寒けと熱とにこもごも攻められてしまった。髪は白くなり、眼は暗く、膝にたこもでき、筋肉は黄ばみ、皮膚はしわだち、生命も危かった。

(この句は杜詩詳註の巻三(一)一九八 に見える。杜甫「西岳を封ずる賦」にも「臣常に肺気の疾あり」とあるが、それは肺病でなくて喘息である。あとで彼の命をうばった病気にも肺病とあるが、それもこの持病の再発であろう。)といっている。この年の冬になって、彼はまた詩句を成陽・葦原両県の役所にいる友人のもとに寄せて、餞寒の苦しみを知らせている。

 

投簡成、華兩縣諸子(卷二(一)一〇七

 

饑臥動即向一旬,敝裘何啻聯百結。

饑臥ややもすれば一旬になんなんとし、敝裘何ぞただに百結を聯ぬるのみならんや

君不見空牆日色晚,此老無聲淚垂血。

君見ずや 空牆日色晩く、この老声無く 涙 血のごとく垂るを。

餞え臥したまま、十日になろうというのに、起きられない、起きれば寒さがひどく、百結の着物しかきていないのだ。見てくれたまえ、わが家のわびしき括壁に夕陽が影さして、この老、声も出ず、血の涙に暮れているのを。

(「筒を咸陽・華原両県の諸子に投ず」この句は詳註卷二(一)一〇七に見える。)

 

王倚も、咸陽・華原両県の友人も、大した権勢ある高官でもなければ、文人でもない、質撲誠実な無名の人間であったにすぎない。杜甫が古典を活かして一篇一篇と五言排律を詠みだし、権力ある高官にささげて引きを乞うたとき、こうした誠実で平凡な人々に向っては、自然な、そして活澄な言葉で彼の病苦と饑寒とをうったえていたのである。このとき杜甫は、すでに民間の方言や俗語を吸収してそれらを詩句のうちに溶かしこみ、彼の詩句はひとしお新鮮かつ有力なものになりはじめてきたのである。
 権力もあり、貴い地位にある高官や無名の友人のはかに、ここで私たちは三人の人間に言及しなければならない。この三人とは杜甫の長安生活の後期に彼の生活をゆたかにし、彼の憂苦を慰めてくれ・のみならず彼の終生の友人でもあった、高適・岑參・鄭虔である。

高適(702762)は宋州で杜甫・李白と別れてから、漫遊すること数年、あとには河西節度使となった哥舒 翰の幕府で文書をかく書記となったが、752年の後半期に、哥舒 翰に随行して入朝、長安へやってきた。

岑參(715770)は高適とは声名ならび称せられた作者で、この詩人は、749年から安西ウィグル庫車)四鎮節度使であった高仙芝の幕府で書記となっており、751年の秋、高仙芝について長安へ来たが、754年の初めこんどほ封常清について、北庭(新橿省孚遠県)へ出かけた。

鄭虔(691759)はというと、七五〇年から長安で広文館博士に任ぜられていた。この時期に三人のうちで、杜甫と往来もっとも長く、交誼もっとも厚かったのは、詮索するまでもなく鄭虔その人と見てよい。
 杜甫と高適・岑參とは、752年の秋、三人が儲光義・薛拠たちとうちつれて、慈恩寺の塔に登った。

慈恩寺は長安城内、東南の一区たる進昌坊にあり、その東南いくつかの寺院を通りすぎると、そこが曲江で、人々がもし境内の七重の塔に登れば、かの渭水と終南山との間にある長安城を見下し、山川を背景として、一だんとくっきりその雄渾で沈鬱な姿を兄いだしうるであろう。これはまさしく岑參が塔に登ったとき詠んだ景色そのものである。

與高適薛據同登慈恩寺浮圖  岑參

高適と薛據と同【とも】に慈恩寺の浮圖【ふと】に登る。

塔勢如湧出,孤高聳天宮。

登臨出世界,磴道盤虚空。

突兀壓神州,崢嶸如鬼工。

四角礙白日,七層摩蒼穹。

下窺指高鳥,俯聽聞驚風。

連山若波濤,奔走似朝東。

靑松夾馳道,宮觀何玲瓏。

秋色從西來,蒼然滿關中。

五陵北原上,萬古靑濛濛。

淨理了可悟,勝因夙所宗。

誓將挂冠去,覺道資無窮。

塔勢 湧出するが 如く,孤高 天宮に聳ゆ。

登臨 世界を出で,磴道 虚空に盤【わだかま】る。

突兀として神州を壓し,崢嶸として 鬼工の如し。

四角 白日を礙【ささ】へ,七層 蒼穹を摩す。

下窺して高鳥を指し,俯聽して驚風を聞く。

連山波濤の若く,奔走 東に朝【むか】うに似たり。

青松 馳道を夾み,宮觀 何ぞ玲瓏たる。

秋色 西より來り,蒼然として關中に滿つ。

五陵 北原の上【ほとり】,萬古青濛濛。

淨理 了【つひ】に悟る可し,勝因 夙【つと】に宗とする所。

誓ひて將に冠を挂けて去り,覺道無窮に資せんとす。

塔の高く聳え立っているありさまは、水が勢いよく噴き出しているかのようで、塔は群を抜いてひとり高く、大空に聳えている。 高い所に登って、世の中から突出して下方をながめれば、石段は、天と地の間を曲がりくねって蟠(わだかま)っている。 高く突き出ていて、中国を圧しており。高く険しいさまは、人間わざとは思えないほどすぐれたできばえである。 塔の四隅の軒先は、しっかりと張り出して照り輝く太陽を支えており、七重の塔は、ドーム状になった青空に迫っている。塔の上から下の方をうかがい見て、高い空を飛んでいる鳥を下方に指さし、塔の上から、うつむいて聞き耳を立てると、激しい風音が聞こえてくる。 連なり続いている山々は大きな波のようであり、東に向かって、勢いよく走り赴くかのようである。青い松は、お成り道の両側に道を夾んで並木が植えられており、宮殿は、なんとすっきりと澄んでいることか。秋の気配は、西方から来て秋になり、いま、時刻も日暮れとなり、古さびた色が、長安のある関中平原に満ちてこようとしている。漢の五陵は、北原のほとりにあって、大昔から今に至るまで、鬱蒼として暗い。 仏教の勝因夙所宗清らかな道理は、ついに悟ることができ、善果をもたらす善因については、早くから心懸けていることがらだ。誓って官員の冠を掛けて置き、官を辞して去ろうとおもう。仏法の真理の修行をして、永遠の悟りへのたすけとする。

作者の岑參は、仏法に帰依していた人で、この句意に酌まれる無常観はそれに由来する。

慈恩寺:陝西省長安の南東3キロメートル、曲江の北にある。唐の高宗が太子の時、文徳皇后のために貞観二十二年(648年)、造営した寺院。玄奘を首座として、仏典漢訳事業を遂行した。寺内に大雁塔がある。・神州:中国の美称。・五陵:漢の五帝の陵。長陵・安陵・陽陵・茂陵・平陵(時代順)の陵墓。

(「高適・薛據と慈恩寺の浮図に登る」五陵とは、前漢の五帝を葬った陵墓をいう。)

この日ともに塔に登った詩人たちはそれぞれみな言の詩句を作って記念した。(薛據の詩作だけは伝ゎっていない)これらの詩句はほぼ一種の共通した感覚を表現している。人々は高いところに登ると、まるで虚空に昇って人界とかけ離れてしまったかのような心もちになっている。だが、杜甫の詠みっぷりはそうではなく、彼には世俗脱難の感じはてんで持ちあわさなかった。

杜甫、詩と生涯 1.杜甫 長安での十年 1.-1 はじめに


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杜甫、詩と生涯 1.杜甫 長安での十年 1.-1 はじめに

 

 

 

 

長安地区歴代都城位置図00
 


杜甫、詩と生涯

1.杜甫 長安での十年


1.-1 はじめに

唐代の長安は規模広大な都であった。東西は十八里百十五歩、南北は十五里百七十五歩、城北の宮殿と東西二つの市を除いては、全域に百十個の正方形或いは長方形の坊があり、坊と坊とのあいだには、まっすぐな街路が委していた。(唐の一里はわが五町、一歩は五尺、尺は同じ。里歩など今はすべて原著者の原文のままに記している。-訳註)今の長安城の面積は、これに比べるとその六分のーにも達しない。長安は五八二年(隋の文帝の開皇二年)の建設で、それ以来、時代の推移につれて、拡充発展しつづけ、天宝時代になるとその繁華は最高点に達し、過去にない充実した国際都市になった。そこには都市計画に沿った支配者の宮殿や役所、邸宅、各派宗教の寺院、商店旅舎がたちならび、公開の或いは私人の庭園がちらばっていた。

漢文委員会:長安の都市計画サイト (http://kodaitoshikei02.ken-shin.net/

〔詩人〕

唐代の著名な詩人は長安に行き、文人と接触することが重要と考えていた。彼らはとかくその持ち前の詩筆で、好んで長安における地勢の雄渾さとか、城坊の整頓、支配階級の豪華な生活、それと日夜そこで演出される盛衰興亡の活劇を写し出そうとした。杜甫も彼が三十五歳(746年)に長安に行ったが、彼の眼光は人の目を幻惑するこれらの事物に限られほしなかった。彼は一年また一年と住みついてゆくうちに、これらの事物のほか、さらに李林甫の専横、支配者集団の腐敗と庶民の苦痛を見とどけたのである。張洎に贈った詩のなかで、多年漫遊から得た結果は『越にゆくも空しく顛躓し、梁に遊ぶもついに惨悽たりき。』(この「適越空顛躓、遊梁竟惨悽」の二句は、杜詩詳注の巻三「太常張卿蛸に贈り奉る」に見える。-訳註)であったと、彼はいっている。洛陽ではただもう世俗の機巧をうんと経験させられたまでのこと。その彼がいま長安へやって来たのも主な目的は官職にありつこうと望んでであった。彼は仏教には縁なき衆生であったし、王屋山・東蒙山に仙を求め道家を訪ねたのも、しばらく李白の影響を受けただけの話で、言うまでもなく家庭の儒教的伝統とか、乃至は個人的要求とかが、彼をせき立てて、是が非でも政府で仕事する地位にありつかねはならぬ羽目にさせたのであった。彼の父は兗州司馬から、長安を距ること遠からぬ奉天(駅西省乾県)の県令に転任したが、これも彼を西のかた閑中に行かせた附帯的原因かも知れないところが、意外にも、長安に十年も住んで彼が得たものは、一向に顕要な官職ではなくて、現実にたいする認識であり、これによって彼は唐代の詩歌に新しい世界をきり開いたのであった。

 

2. 玄宗の油断  (道教・享楽・陰謀)

〔政治〕

この時代の政治はまさに日一日と腐敗してゆく兆が現れていた。李隆基は三十余年皇帝となっていたが、天下太平で社会富裕の有様をながめて、国内にはもう何の心配に値することもないと感じた。その太平思想は、彼が早年政治に励んだ精神を麻痺させてしまった。年六十を過ぎたこの老皇帝は十数年このかた道教信仰に迷いこんで、親しく神仙が空中で物語るのを聞いたり、紫雲のなかに玄元皇帝(すなわち老君)が出現したとか、どこそこの土地で符瑞が現われたとか、彼に報告するものがあったりして、自分は未来永劫太平な世に居て永久に死ぬことはなかろうと信じさせられたのである。同時に彼は自身を宮中に閉じこめて官能的な享楽を求め、日がな盲声色におぼれ、騎著とめどなき生活を送っていた。そして彼は、政権をすっかり中書令の李林甫にわたしてしまった。李林甫は『ロに蜜あり、旗降剣あり』といわれた陰謀家。彼は玄宗の側近に媚びへつらい、玄宗に迎合して、今までに得た恩寵と信任を固めることに努めた。彼は諌言の路を絶ち人の昔をふさいで、己の陰謀をなしとげようとした。

 

― 李林甫 ― 陰謀と恐怖

李林甫は賢才をねたみ、自分よりすぐれた能力をもつ者をおさえて、己の地位を保持した。それのみか、しばしば大疑警つくりあげて、自分に協力せぬ主だった官吏を無実の罪におとしいれ、自己の勢力を拡張した。そのため、開元時代に遣っていた比較的正直な、秋介な、才能ある、或いは気ずい気ままで放言する、また片意地といわれる程に潔白な人士で、彼の悪だくみと落し穴にかからぬものはほとんどなかった。

杜甫の崇拝していた張九齢・厳挺之も彼のために排斥されて都を離れ、やがて前後して死んでいったし、李白の天才に驚歎し金亀(唐時代、三品以上の官吏が侃びる袋飾。-訳註)の高い官等の身分でありながらかれと酒を汲みかわした賀知章も、上書して道士にならんことを請い、郷里に帰っていった。その後李邕も北海太守の官に在任中、李林甫の特務機関にがい殺害され、左丞相の李適之は宜春の太守に左遷され、ほどなく自殺を迫られ、李適之と仲が好く、のち杜甫と非常に親密な関係にあった房琯も、宜春(今の江西省宜春県におかれていた郡。-訳註)の太守に貶められている。

この時代の長安は陰謀と恐怖の空気に包まれて、数年前の「飲中八仙」の浪漫的な雰歯気はほとんど一掃されていた。李林甫のほか、政府の人物といえば、王鉷や楊国忠のような貧官汚吏でなければ、陳希烈のような愚物卑怯者ばかりであった。

杜甫がはじめて長安にいったばかりのときは、まだ漫遊時代の豪放な心ばせは失せやらず、咸陽の旅舎で天宝五年(746)の除夜を送ったときなど、泊りあわせた客たちと明るい燭のもとで、高声あげて賭けをしていた。だが彼が長安の現実と接触が重なるにつれて、豪放な懐抱もおいおいに殺がれてゆき、その間にあって彼は過去の自由な生活に限りないなつかしみを感じた。だから一種矛盾した心情が十二分に彼の長安に在った前期の詩句に反映されている。それは一方で自由な『江海の人士』を羨むかとみれば、他方では長安で官職にありつきたいと企て、上の句で人間を拘束する帝都からは離れたいと言い、すぐ続けて下の句ではここに留まらないわけにゆかぬと述べたりする。

とりわけ彼が外からさびしい書斎にもどってくるとき、それが風霜人に逼る冬であろうと、渭水北のかなたが眺められる春であろうと、彼はいつも李白をしのんでいた。孔巣父が長安から江南へ帰る送別の宴でも、李白の安否を問うてほしいと、彼にくり返し頼んでいる。(「春日李白をおもう」の句に、「渭北春天の樹 江東日暮の雲」とあり、詳註の巻一には、孔巣父が病と云って江南に帰るを送り、かねて李白に呈した詩が見える。-訳註)彼がこんなに李白をなつかしむのも、つまりは李白がなおもああした豪放生活を続けているのが羨しく、それに引きかえ彼自身は今の生活を放棄しょうにもしえないものがあったからである。

― 文学芸術の一技にすぐれた者

唐の玄宗は、奥深い宮廷で心を声色にほしいままにし、外部の事情にたいしては日増しにうとく、前に聡明有為をうたわれた帝王も愚かしい天子に変ってしまった。彼は時たま人民に思いを馳せ、国民の租税を免除したが、貪慾な権臣どもの横暴なとりたては彼が免除したそれより幾層倍も越えたものであった。七四七年のこと、彼は詔を出して、文学芸術の一技にすぐれた者は都に出て試験を受けるようにと求めた。ところが、李林甫は文人芸術家をひどく憎悪していた。というのも、それらの人間は田舎者で『礼度』をわきまえず、彼らが思うまま朝政を批評したのでは自分に不利だ、と恐れたからである。そこで陰謀をめぐらし、そのお召しに応じた挙人を試験の場でおとし、誰一人として及第させなかったのである。(唐代でいう挙人は地方長官から推挙されたもののことで、進士に応試する資格をもっていた。)試験成績が発表されたあとで彼は上書して、これは今の民間には遺された賢能がいないことを証明するに足ると、逆さまに祝辞をたてまつった。玄宗もこんなぐあいでうやむやにごまかされてしまうほかはなかった。

杜甫も、詩人の元結(723-772)も、この欺瞞の試験に参加したことがあった。杜甫はもとこのたびの試験を唯一の立身出世の路とみなして、きっと成功するものと思いこんでいたが、はからずもそんな始末になったものだから、彼は詩句に再三この傷心事をもち出している。そして李林甫が七五二年に死去すると、彼はいよいよ大胆に数年来の胸にたくわえられていた悲憤を述べたのであった。

 

 

破膽遭前政、陰謀猫菜釣。

破膽す 前政の陰謀独り釣を計るに遭沌)

微生霑忌刻、萬事益酸辛。

教生 忌刻に蹴津万事 ますます酸辛なり

ぶったまげてしまった。前の宰相李林甫のことである。やつは、陰謀をたくらみ、専政をほしいままにしてきた。その憂き目にあったものは誰あろう。ささやかな私の生活ではあるが、毒牙にも似た彼のむごい目にあうてからは、よろず事ごとに辛酸を増すばかり。

ー 京兆二十韻 (註 李林甫の専横をさす。)
(「鮮嘉兆に贈り奉る二十韻」は詳註の巻二に見える。鮮干、名は仲通、覇の富豪で天宝十年に京兆の尹となった。-訳註)http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-tohoshi/archives/66816157.html

これは杜甫が李林甫の陰謀政治下に出くわした打撃であった。同時に彼個人の経済状態にも大きな変化が起った。彼の父は奉天県令に赴任したらしいが、まもなく死んでしまい、彼は彼で長安一帯を流浪し、日々に貧窮の途をたどるうちに、生活維持のためには、平身低頭、いくたりかの貴族屋敷に巣くういわゆる『賓客』の数をみたす身とならざるをえなかった。その時代、一部の貴族は前代の遺風をうけついで、彼らの邸宅庭園で閑散な歳月を享受するほかは、文人・楽人・書家・画師のいくたりかを招いてその生活の装飾品としていた。彼らは政治上には何の作用もおこすはずはなかったが、あり余った財富をたのみに、時に応じて賓客たちに小さな恩恵を施していた。賓客は彼らの相伴となって、詩酒宴遊のあいだに自己の憐れな生計を維持した。だが、時たま酔いながらに、主客の間にもしばらくは売文を介して、階級のわくが取除かれたかのごとく、たがいに『朋友』となったこともあった。杜甫はこんな賓客になっていたのである。このほかに彼はなお副業を探し当て、薬物を山野で採ったり階前に栽培したりして、もとめられるままに彼らに献上して、いくらかの『薬価』にかえ、彼らの手から受取った銭がただでもらったものでないことを表示した。これがつまり、後になって彼のいう『薬を都市に売り、友人に寄食す』である。それらの『朋友』のうちで最も重要なのは汝陽王李璡と鮒馬の鄭潜曜である。彼は詩を作ってこの輩に贈り、彼らを讃め、彼らの自分に対する待遇を、

巳忝歸曹植,何知對李膺。

己に曹植に帰するを忝くす 何如ぞ李膺に対せん

招要恩屢至,崇重力難勝。

招要恩 屢々(しばしば)至る 崇重 力 勝()え難し

披霧初歡夕,高秋爽氣澄。

霧を披(ひら)く 初歓の夕 高秋 爽気(そうき)澄めり

私は昔の王粲のようなもので、己にかたじけなくも曹植ともいうべきあなたに身を託するようになりましたが、杜密でもない私がどうして李贋ともいうべきあなたに対することができましょう。私を招いてくださる御恩命がしばしば私の処へきます、私を尊重してくださるので、私の力はそれに勝るの難しいほどです。あの雲霧をおしのけて青天をながめるような心地した初めてお会いした夕べには、秋の天高く爽な気がすみわたっていた。

ー 贈特進汝陽王二十韻(汝陽王李璡は寧王憲の子、玄宗の甥にあたる。この句は、杜詩詳註巻一(一)六〇 に見える。)

騎驢三十載,旅食京華春。

驢に騎る三十載 旅食す京華の春

朝扣富兒門,暮隨肥馬塵。

朝に富児の門を如き 暮に肥馬の塵に随う

殘杯與冷炙,到處潛悲辛。

残杯と冷泉と 致る処潜に悲辛

主上頃見徵,然欲求伸。

主上に頃ろ徴さる 然伸を求めんと欲す

青冥卻垂翅,蹭蹬無縱鱗。

青冥卻って翅を垂る 蹭蹬として鱗を縦にする無し

驢馬に乗り始めて早や三十年ばかり、都の春に旅住いをしている。朝にはかねもちの門を叩いたり、暮には他の権貴がとばす肥馬の塵のあとからくっついてゆく。彼等が与える飲み残しの酒杯、つめたくさめた焼き肉、そんなものをあてがわれて到るところ自分は内心に悲み辛さをいだいている。近いころ我が君からおめしにあずかり試験をおゆるしになったので、今度こそはとにわかにいままでの思いのたけを伸べようとおもっていたのだった。 此の大鳥は青空に飛び立つのでなく、そこからつばさを垂れさせられてしまい、此の大魚は巨塁に自由に泳ぎまわるのではなく勢なく鱗を気ままに振うことができないようなことになった。』実情は別の一首にはっきり述べられている。

ー 奉贈韋左丞丈二十二韻杜詩詳註巻一(一)七三 に見える。「韋左丞丈に贈り奉る」)

彼はかくも悲惨な詩句を書いて韋済に贈っている。その韋済とても、さほど立派な人物ではなく、彼は七三四年、素性も怪しい方士張巣を玄宗にすすめて、長生を求め道教に迷いこんだ皇帝の心に迎合している。そして748年、河南声から尚書左丞に違ったのだった。彼は河南にいたとき、首陽山のふもと、戸郷事へ杜甫を訪ねていったことがあったが、それはすでに杜甫が長安へ赴いたあとであった。彼が長安に行って後、つねづね同僚との席上で杜甫の詩をほめたたえていた。これはそのころ長安で詩人としての杜甫の才能を重んじてくれた唯一の人といってよい。それで、杜甫も、胸中の悲憤を洗いざらいうったえて「韋左丞丈に贈り奉る二十二韻」を書きあげたのである。この詩は開口一番、彼がその腐敗した社会で感じた真実を、『紈袴は餓死せず、儒冠多く身を誤る、』 - “いい身分の貴公子とちがい、学問に志すものは衣食にも事かく”、と語っており、ついで彼は若い日の抱負と今日の零落を述べている。

これは杜甫の述懐詩としてはもっとも早い創作で、彼の貧しい生活がこれから始まったことも表明されている。同時に、「東のかた大海へ赴いて昔日の自由浪漫な生活をとりもどしたいと思い」、一方ではまた、「終南山麓の長安杜少陵における就官生活を離れるに忍びない」、という心のうちにある矛盾をも述べている。事実、彼は749年の冬に一度郷里に帰ったこともある。彼はまた洛陽城北でそのころすでに太微官と名が改まっていた玄元皇帝廟へ詣でて、呉道玄が宮廷の壁にえがいた「五聖図」を鑑賞し、なおまた詩句で玄宗が道教を崇敬しすぎることに不満を示してはいるが、杜甫は洛陽に長らくは住まないで、また長安へまいもどってきている。

sk08 秦咸陽宮 配置概略図01

杜甫詩における房琯


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古風,五十九首之一 #1

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雜詩六首其四古意贈今人 #1

 

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代葛沙門妻郭小玉詩二首

 

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僧伽歌 -#1

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寫懷二首其二-#1

 

代葛沙門妻郭小玉詩二首

 

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僧伽歌  #2

張中丞傳後敘-#12

寫懷二首其二 -#2

 

雜詩二首其一 詠七寳扇-#1

 

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贈丹陽橫山周處士惟長

張中丞傳後敘 -#14

寫懷二首其二 -#3

 

邱巨源_雜詩_詠七寳扇-#2

 

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-

-

 

 

 

 

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贈丹陽橫山周處士惟長 #2

張中丞傳後敘 -#15

冬至

 

邱巨源_其二聽隣妓 -#1

 

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雪讒詩贈友人#-0

張中丞傳後敘 -#16

柳司馬至 -#1

 

邱巨源_其二聽隣妓

 

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雪讒詩贈友人 #1

張中丞傳後敘 -#17

柳司馬至-#2

 

王融_ 雜詩五首其一古意

 

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雪讒詩贈友人 #2

張中丞傳後敘 -#18

 別李義 - #1

 

王融_雜詩五首〔2

 

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雪讒詩贈友人 #3

張中丞傳後敘 -#19

 別李義 - #2

 

王融_雜詩五首〔3

 

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雪讒詩贈友人 #4

張中丞傳後敘 -#20

 別李義 - #3

 

王融_雜詩五首〔4

 

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杜甫研究、詩と生涯

 

 

 

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雪讒詩贈友人 #5

張中丞傳後敘 -#21

 別李義 - #4

 

王融_雜詩五首〔5

 

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雪讒詩贈友人 #6

張中丞傳後敘 -#22

 別李義 - #5

 

謝朓_雜詩十二〔1〕

 

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雪讒詩贈友人 #7

張中丞傳後敘 -#23

 別李義 - #6

 

謝朓雜詩十二〔2〕

 


757年至徳二載、杜甫は蘆子関で捕縛され、安禄山の叛軍に占領されていた長安に送られた。杜甫は軟禁の長安から命がけで脱出し、鳳翔の行在所に駆けつけた。その功によって粛宗に拝謁し、左拾遺(従八品上)の官を授けられた。必ずしも高い官職ではなかったが、その職掌は皇帝の政治の誤りを正すことにあり、同官を拝命した喜びは、杜甫にとって大きいものだった。ところが間もなく、杜甫は宰相房琯を弁護して粛宗の逆鱗に触れた。辛くも罪を問われることは免れたが、杜甫は徹底して朝廷内で疎外され、仕事に関して嫌気を感じていた。翌年には房琯の一党とされて、華州司功参軍に出される。宰相の房琯が邠州刺史に貶められたことで、杜甫が官を辞することはこの時期に到る詩には明確にあらわれている。そして759年乾元二年秋初、杜甫は粛宗の時代では、一縷の希望もないと、官職を捨てて秦州へと旅立つ。半官半隠の理想と人生は、捨てきれないものの後半生の漂泊はここに始まった。

左拾遺の官を拝命して、希望と使命感を抱いた杜甫が、一転して挫折と失望を味わうこととなった原因が、いわゆる「房琯擁護発言事件(房琯事件)」である。しかしこの「事件」により、堪え、苦しみ、詩人として格段の成長を遂げることになるのである。最も注目すべき事柄である。

 
 

 杜甫と房琯について杜甫の詩文は以下のようにある。

 

 

詩題

直接

関連詩

(1)

悲陳陶

 

(2)

悲青坂

 

(3)

陪王漢州留杜綿州泛房公西湖【案:房琯刺漢州時所鑿。】

 

(4)

 舟前小鵝兒〔自注:漢州城西北角官池作,官池即房公湖

 

(5)

得房公池鵝

 

(6)

別房太尉墓

 

(7)

承聞故房相公靈櫬,自閬州殯歸葬東都有作,二首之一

 

 

承聞故房相公靈櫬,自閬州殯歸葬東都有作,二首之二

 

(8)

奉謝口敕放三司推問状

 

(9)

祭故相国清河房公文(故の相国清河房公を祭る文)

 

 

 

 

 

 

 

杜甫詩index-13  763年寶應二年 杜甫52歳 蜀中転々 92

杜甫詩index-15  765年永泰元年 54歳 正月幕府を辞す 63

●文

 

 祭故相国清河房公文(故の相国清河房公を祭る文)

 

○関連
杜甫人生のエポックメーキングの事件、「房琯擁護発言事件(房琯事件)」房琯に関する詩は
9首あり、関連の詩が5首ある。特に上記①~⑦の詩文の前後の作品は杜甫の心境を推し量るものとして注目している。杜甫の人生を変えた、この事件を多様に、有機的に、大局的にもとらえてゆく。

 

〇房琯一派 

鄭虔、何将軍、賈至、嚴武、岑參、蘇源明、儲光儀、

 

 

 

765-34 陪王漢州留杜綿州泛房公西湖 (十二()一〇〇六)註(640

舊相恩追後,春池賞不稀。

闕庭分未到,舟楫有光輝。

豉化蓴絲熟,刀鳴鱠縷飛。

使君雙皁蓋,灘淺正相依。

765-34 721 《舟前小鵝兒〔自注:漢州城西北角官池作,官池即房公湖。〕》

 

765年-35 得房公池鵝(卷十二(三)一〇〇八)註(641

房相西亭鵝一群,眠沙泛浦白於雲。

鳳皇池上應迴首,為報籠隨王右

765-35 722 《得房公池鵝》 

 

 

765-39 承聞故房相公靈櫬自閬州殯歸葬東都有作二首其一(卷一四(三)一二三四) 注(843)

遺聞房太尉,歸葬陸渾山。

一德興王後,孤魂久客間。

孔明多故事,安石竟崇班。

他日嘉陵淚,仍霑楚水還。

765年永泰元年54-49 《承聞故房相公靈櫬,自閬州殯歸葬東都有作,二首之一(遠聞房太守)

765-40 承聞故房相公靈櫬自閬州殯歸葬東都有作二首其二(卷一四(三)一二三五) 注(844)

丹旐飛飛日,初傳發閬州。

風臣終不解,江漢忽同流。

劍動親身匣,書歸故國樓。

盡哀知有處,為客恐長休。

765年永泰元年54-50 《承聞故房相公靈櫬,自閬州殯歸葬東都有作,二首之二》

 

 

 

 

 

757年至徳二載 《奉謝口敕放三司推問狀 房琯関連 1-(4) 杜甫 房琯関連 1-(4) 杜甫<1502-4 漢文委員会kanbuniinkai頌之の漢詩ブログ4360 杜甫詩1500-1502-4-1043/2500

 

 

 

 

765

年永泰元年54-49 《承聞故房相公靈櫬,自閬州殯歸葬東都有作,二首之一(遠聞房太守 杜甫index-15 杜甫<849> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4980 杜甫詩1500-849-1167/2500

 

 


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