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杜甫、詩と生涯 1.杜甫 長安での十年 1.-2 長安での就活の中での詩
1.-2 長安での就活の中での詩(1)
玄宗は751年(天宝十年)、正月八日から十日まで三日間つづけざまに三つの盛典 - 玄元皇帝・大願・天地の祭祀を挙行したのだった。杜甫は立身出世によしなきを感じていた矢さきであったので、これを好機会として「大礼賦」三篇を書き上げ、「三大賦を進むるの表」を延恩匭のなかに投じた。
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註 匭とはこの時代に意見をさしだす信箱で、武后が政権を担っていた時にはじまった。その信箱に四面の口があり、東は「延恩」、南は「招諌」、西は「伸冤」、北は「通玄」とよばれる。およそ自分に才能ありと思い・立身出世を願うものは、その著作或いは上表する文を「延恩匭」に投げこめはよかったのである。 |
ところが、思いがけなくも、彼が投じた三篇の賦がついに効果を生じた。玄宗は読みおえると、賞讃して彼を集賢院待制(図書寮顧問とでもいうべき職分。)とし、宰相に命じて彼の文章を試験させた。
これは彼の長安十年中もっともかがやかしい時期となったのである。彼は一日のうちに、大いに評判された。そしてその試験の日など、集賢院の学士たちは彼を取りまいて眺めていた。が、しかしこの幸運は、パッとひらめいたばかりで、過ぎ去ってしまった。試験があった後、彼は部署配置の任命を待っていたのに、いつになっても達しが降りて来ず、これも李林甫が中にたって禍したのであった。彼はただ気長に待っているほかはなかった。そして、翌年の春、杜甫は、洛陽にもどってしばらく住んだとき、二人の集賢院の学士に向って、仕官の前途にはあまり希望がもてなくなった、といい、続けて、祖父の名声をうけついで作詩に努力する、と彼の口から絶望的な言葉を発言している。
しかし、杜甫は思いあきらめたわけではなかったのである。754年、続けざまに賦を二篇、「西岳を封るの賦」と「鵰の賦」とを奉っているが、彼はこの二篇の賦をたてまつる上表文の中で、相も変らずのどから手の出るほど仕官を望んでおり、自分の窮困生活を述べて、はなはだ痛ましいものがある。
同時により好みすることもなく、彼はあまり貴くもない権力者や要路の人々にも詩を送って、彼らに引きをもとめた。彼は翰林の張キ・京兆の鮮于仲通、長安へ朝謁に来た哥舒
翰、左丞相の韋見素たちにも詩句を贈っている。それらの詩句はすべて排律で作られ、一定の形式をそなえている。はじめに彼らの功業をほめたたえ、ついで自己の窮状を述べたて、最後に詩句を望する本意を述べたものであるが、それは人に哀憐と切迫さを感じさせ、排律のうちに積み重ねられた典故も、彼の痛ましい心象を蔽いきれなかったのであった。私たちは杜甫が一方では貧苦に迫られ、他方では功業心に駆られて、官職を得るためにはもはや手段を選ばぬまでになっていたことを、そこに見ることができよう。
杜甫は四十からあと、生活の貧苦はかりでなく、身体も持病の喘息ため次第に衰えが出始めた。751年の秋、長安は長雨が降りつづき、いたるところで垣や家屋が倒壊した。杜甫は旅の宿でまる一秋というもの病みついて、門ぎわの水たまりには小魚がわき、寝台のそばの床にも青い苔が一面に生えた。彼の肺はもとから健全でなく、このときにはまた重い喘息にかかった。病後彼は友人の王琦の家にゆき、そのときの病状を次のように語っている。
病後遇王倚飲
贈歌 |
病後王倚に過りて飲み贈れる歌 |
瘧癘三秋孰可忍,寒熱百日相交戰。 頭白眼暗坐有胝,肉黃皮皺命如線。 |
瘧癘三秋 たれか忍ぶぺけん、寒熱百日 相い交戦す。 頭白く眼暗く 坐して胝あり、肉黄ばみ皮皺だちて命は線の如し。 |
この年の秋の季節中は瘧癘で苦しんだ、三月百日ものあいだ、寒けと熱とにこもごも攻められてしまった。髪は白くなり、眼は暗く、膝にたこもでき、筋肉は黄ばみ、皮膚はしわだち、生命も危かった。 |
(この句は杜詩詳註の巻三(一)一九八 に見える。杜甫「西岳を封ずる賦」にも「臣常に肺気の疾あり」とあるが、それは肺病でなくて喘息である。あとで彼の命をうばった病気にも肺病とあるが、それもこの持病の再発であろう。)といっている。この年の冬になって、彼はまた詩句を成陽・葦原両県の役所にいる友人のもとに寄せて、餞寒の苦しみを知らせている。
投簡成、華兩縣諸子(卷二(一)一〇七 |
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饑臥動即向一旬,敝裘何啻聯百結。 |
饑臥ややもすれば一旬になんなんとし、敝裘何ぞただに百結を聯ぬるのみならんや |
君不見空牆日色晚,此老無聲淚垂血。 |
君見ずや 空牆日色晩く、この老声無く 涙 血のごとく垂るを。 |
餞え臥したまま、十日になろうというのに、起きられない、起きれば寒さがひどく、百結の着物しかきていないのだ。見てくれたまえ、わが家のわびしき括壁に夕陽が影さして、この老、声も出ず、血の涙に暮れているのを。 |
(「筒を咸陽・華原両県の諸子に投ず」この句は詳註卷二(一)一〇七に見える。)
王倚も、咸陽・華原両県の友人も、大した権勢ある高官でもなければ、文人でもない、質撲誠実な無名の人間であったにすぎない。杜甫が古典を活かして一篇一篇と五言排律を詠みだし、権力ある高官にささげて引きを乞うたとき、こうした誠実で平凡な人々に向っては、自然な、そして活澄な言葉で彼の病苦と饑寒とをうったえていたのである。このとき杜甫は、すでに民間の方言や俗語を吸収してそれらを詩句のうちに溶かしこみ、彼の詩句はひとしお新鮮かつ有力なものになりはじめてきたのである。
権力もあり、貴い地位にある高官や無名の友人のはかに、ここで私たちは三人の人間に言及しなければならない。この三人とは杜甫の長安生活の後期に彼の生活をゆたかにし、彼の憂苦を慰めてくれ・のみならず彼の終生の友人でもあった、高適・岑參・鄭虔である。
高適(702-762)は宋州で杜甫・李白と別れてから、漫遊すること数年、あとには河西節度使となった哥舒
翰の幕府で文書をかく書記となったが、752年の後半期に、哥舒 翰に随行して入朝、長安へやってきた。
岑參(715-770)は高適とは声名ならび称せられた作者で、この詩人は、749年から安西ウィグル庫車)四鎮節度使であった高仙芝の幕府で書記となっており、751年の秋、高仙芝について長安へ来たが、754年の初めこんどほ封常清について、北庭(新橿省孚遠県)へ出かけた。
鄭虔(691-759)はというと、七五〇年から長安で広文館博士に任ぜられていた。この時期に三人のうちで、杜甫と往来もっとも長く、交誼もっとも厚かったのは、詮索するまでもなく鄭虔その人と見てよい。
杜甫と高適・岑參とは、752年の秋、三人が儲光義・薛拠たちとうちつれて、慈恩寺の塔に登った。
慈恩寺は長安城内、東南の一区たる進昌坊にあり、その東南いくつかの寺院を通りすぎると、そこが曲江で、人々がもし境内の七重の塔に登れば、かの渭水と終南山との間にある長安城を見下し、山川を背景として、一だんとくっきりその雄渾で沈鬱な姿を兄いだしうるであろう。これはまさしく岑參が塔に登ったとき詠んだ景色そのものである。
與高適薛據同登慈恩寺浮圖
岑參 |
高適と薛據と同【とも】に慈恩寺の浮圖【ふと】に登る。 |
塔勢如湧出,孤高聳天宮。 登臨出世界,磴道盤虚空。 突兀壓神州,崢嶸如鬼工。 四角礙白日,七層摩蒼穹。 下窺指高鳥,俯聽聞驚風。 連山若波濤,奔走似朝東。 靑松夾馳道,宮觀何玲瓏。 秋色從西來,蒼然滿關中。 五陵北原上,萬古靑濛濛。 淨理了可悟,勝因夙所宗。 誓將挂冠去,覺道資無窮。 |
塔勢 湧出するが 如く,孤高 天宮に聳ゆ。 登臨 世界を出で,磴道 虚空に盤【わだかま】る。 突兀として神州を壓し,崢嶸として 鬼工の如し。 四角 白日を礙【ささ】へ,七層 蒼穹を摩す。 下窺して高鳥を指し,俯聽して驚風を聞く。 連山波濤の若く,奔走 東に朝【むか】うに似たり。 青松 馳道を夾み,宮觀 何ぞ玲瓏たる。 秋色 西より來り,蒼然として關中に滿つ。 五陵 北原の上【ほとり】,萬古青濛濛。 淨理 了【つひ】に悟る可し,勝因 夙【つと】に宗とする所。 誓ひて將に冠を挂けて去り,覺道無窮に資せんとす。 |
塔の高く聳え立っているありさまは、水が勢いよく噴き出しているかのようで、塔は群を抜いてひとり高く、大空に聳えている。 高い所に登って、世の中から突出して下方をながめれば、石段は、天と地の間を曲がりくねって蟠(わだかま)っている。 高く突き出ていて、中国を圧しており。高く険しいさまは、人間わざとは思えないほどすぐれたできばえである。 塔の四隅の軒先は、しっかりと張り出して照り輝く太陽を支えており、七重の塔は、ドーム状になった青空に迫っている。塔の上から下の方をうかがい見て、高い空を飛んでいる鳥を下方に指さし、塔の上から、うつむいて聞き耳を立てると、激しい風音が聞こえてくる。 連なり続いている山々は大きな波のようであり、東に向かって、勢いよく走り赴くかのようである。青い松は、お成り道の両側に道を夾んで並木が植えられており、宮殿は、なんとすっきりと澄んでいることか。秋の気配は、西方から来て秋になり、いま、時刻も日暮れとなり、古さびた色が、長安のある関中平原に満ちてこようとしている。漢の五陵は、北原のほとりにあって、大昔から今に至るまで、鬱蒼として暗い。 仏教の勝因夙所宗清らかな道理は、ついに悟ることができ、善果をもたらす善因については、早くから心懸けていることがらだ。誓って官員の冠を掛けて置き、官を辞して去ろうとおもう。仏法の真理の修行をして、永遠の悟りへのたすけとする。 |
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作者の岑參は、仏法に帰依していた人で、この句意に酌まれる無常観はそれに由来する。 ・慈恩寺:陝西省長安の南東3キロメートル、曲江の北にある。唐の高宗が太子の時、文徳皇后のために貞観二十二年(648年)、造営した寺院。玄奘を首座として、仏典漢訳事業を遂行した。寺内に大雁塔がある。・神州:中国の美称。・五陵:漢の五帝の陵。長陵・安陵・陽陵・茂陵・平陵(時代順)の陵墓。 |
(「高適・薛據と慈恩寺の浮図に登る」五陵とは、前漢の五帝を葬った陵墓をいう。)
この日ともに塔に登った詩人たちはそれぞれみな言の詩句を作って記念した。(薛據の詩作だけは伝ゎっていない)これらの詩句はほぼ一種の共通した感覚を表現している。人々は高いところに登ると、まるで虚空に昇って人界とかけ離れてしまったかのような心もちになっている。だが、杜甫の詠みっぷりはそうではなく、彼には世俗脱難の感じはてんで持ちあわさなかった。